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劉備の進撃

白水関の兵をおさえた劉備は全軍に、 
「成都へ征く」 
と告げて、黄忠と卓膺に先陣を率いさせた。劉備軍は白水関から葭萌を経てフ県にむかって猛進した。… 
忠、常に先登して陣を陥し、勇毅三軍に冠たり 
とのちに絶賛される黄忠である。 
「黄漢升には矢があたらぬのか」 
と他の将士にふしぎがられるほど、黄忠が敵陣に接近する速さは尋常ではなく、多くない兵を率いて直進し、防衛の陣に突入した。そのやぶれに後続の兵がつけこんで撃破した。こういうときの劉備は本陣をうごかすのが速く、敵の矢がとどくところまで進んで、励声を発した。劉備は大勝してフ県をとった(212年12月)。 
敗れた将士は緜竹までしりぞいて陣を布きなおした。敗報に接した劉璋は、歯噛みをして李厳をよび、 
「緜竹へゆき、軍を督いるべし」 
と命じた。 
… 
「主将(李厳)と佐将(費観)がそろって劉備についたとは」 
緜竹をまもっている諸将のなかで劉備に通じている者がいないとはかぎらない。それを想うと李厳と費観をののしる気力さえ萎えてくる。やがて劉備軍が動いたと知ると、かれらは疑心暗鬼となった。劉備軍は膨らんだため、一軍が二軍となり、さらに三軍となって諸県を攻略しはじめた。その三軍が集合して緜竹を囲むというけはいを察した城内の諸将は、脱出して炎暑の道をラク県へむかって奔った。ラク県は広漢郡のなかで最も重要な県で、郡府がそこにある。 
「ほう、緜竹があいたか」
 一笑した劉備はすみやかに本営を緜竹に移した。
 「ラク城の攻略はわたしにおまかせください」 
と自信ありげに言ったのはホウトウである。軍師中郎将であるホウトウがここまでの攻略図を画いてきたのであり、緜竹をたやすくえたのもかれの功である。そういう兵略の背後にある食糧供給に破綻を生じさせなかったことこそ、ホウトウの最大の功である。この軍は飢えたという貌をいちどもしたことがない。しかもこの軍は敵国の最も深いところにいながら包囲されたことがなく、兵威によって県の官民を服従させもするが、徳声によって靡然とさせたりもする。それをおこなったのはホウトウであり、かれは兵略における眩人であるといっても過言ではない。白水関から緜竹まで進出するのに月日がかかりすぎているようにみえるのは、軍事の裏面が史書では省略されすぎているからである。 
「ぞんぶんにやるがよい」 
劉備は緜竹にいて、ラク県の包囲をホウトウにまかせた。ラク県をまもっているのは劉璋の子の劉循である。 
夏がおわるまでにはラク城をとりたい。
 ホウトウはこの戦いを楽観していた。だがラク城は連日連夜の猛攻をしのぎきった。30日がすぎたとき、 
「緜竹とこの城の何がちがう」 
とホウトウはさけびたくなった。むろん緜竹にいなかった劉循がこの城にはいるということである。兵は疲れはてて、はつらつさを失った。こういうときに急襲されるとひとたまりもないと思ったホウトウは、 
「塁塹を堅固にせよ」 
と諸将に命じ、防備を厚くした。 
生彩のない秋となった。その秋がおわり、無表情に冬がきた。寒さは人の動きを鈍くさせる。雪がふれば人は動かなくなる。ラク城も自軍も静かに呼吸しているだけである。 
これでも戦いなのだ。 
雪の上に立ち、ラク城をながめつつホウトウは嘆息した。白く凍った嘆息であった。明けて建安19年(214)となった。

 三国志7 宮城谷昌光p.256.




はかりがたい心

張魯討伐を劉璋からまかされた劉備は、フ県を発したもののあえて急がずに軍を北上させた。ホウトウは、途次、たびたび進言をおこなった。
 「ひそかに精兵を選び、昼夜兼行で、成都を急襲しましょう。劉璋は武事にすぐれておらず、もとより備えなどはしていませんから、大軍を急行させれば一挙に平定することができます。これが上計なのです」 
しかし劉備はこの計に関心を示さなかった。ゆるやかであるが軍は進み、ついに広漢郡北部の葭萌県に到着した。すでに年はあらたまり、建安17年(212)となった。 
葭萌県の北に白水関があり、そこからは涼州へも漢中郡へもいける。さきに劉備は劉璋から、白水関の兵を随意におつかいください、といわれている。葭萌県にいたった劉備はまったく動かなくなった(この年の10月まで何もしなかった)。
10月、孫権から急使がきた。 
「曹公の軍が呉を攻めようとしています。どうか呉を救っていただきたい」
 真偽を確かめようがないホウトウは、 
これは主を益州からひきあげさせる策だ 
と思った。当然劉備もそう考えるはずであるから、遁辞をつかって使者をさらせるであろう、とホウトウはみた。ところが驚いたことに劉備は、
 「かならず呉へ参るでありましょう」 
と言って呉の使者を喜ばせた。ホウトウはあわてた。使者がさるとすぐに、 
「孫権の策略です。おかえりになってはなりません」 
と強く諫めた。しかし軍のむきをかえさせた劉備は、ホウトウの言を聞こうともせず、劉璋に急使を発した。
… 
劉備は荊州へひきあげるという。 
「つきましては一万の兵と軍資をお借りしたい」 
これを聞いて劉璋はむっとした。何といういいぐさであろうか。兵も資も貸すわけにはいかぬ、と言いたいところではあるが、劉璋は、
お求めに応じよう
と答えた。ただし与えたのは四千の兵であり、軍資は半分である。 劉備がひきあげると知った張松は驚き、 
「いま大事が立とうとしているのに、どうしてそれをすてて去ろうとなさるのですか」 
と書簡を送った。劉備に随行している法正にも書簡を送って、 
「劉豫州を帰還させてはならない」 
と説いた。しかし、諸葛亮とならぶ軍師中郎将であるホウトウでさえ翻意をうながすことができないのであるから、法正にはどうすることもできない。が、ここで事件がおこった。
… 
「弟(張松)に奸計があります」 
張粛は体貌にすぐれ、その挙止には威儀があるといわれたが、おこなったことといえば弟を売ったことであった。 赫怒した劉璋はすぐさま張松を捕えさせて、その顔を睨みすえた。 
「主を売り、州を売る、これ以上の罪があろうか」
 張松は目を上げて劉璋をみた。 
「民を殺し、州を廃す、これ以上の罪があろうか」
 「だまれ!この奸人を斬れ!」 
目をつりあげた劉璋はただちに張松を斬殺させると、白水関だけでなく、州内各関の戍衛に文書を送って、 
「二度と劉備に関わってはならぬ」 
と命じた。 
凶事を知った劉備はめずらしく激怒した。ホウトウに顔をむけた劉備は、 
「策にはかならず上中下があるものである。上の策はすでに聞いた。中と下の策を聞かせてもらおう」
 と厳しい口調で言った。 

三国志7 宮城谷昌光p.247.




会見

劉備がむかっているのは、蜀郡の成都ではなく、広漢郡のフ県である。そこで劉璋と会見することになっている。
江水をさかのぼってゆくと、巴郡の郡府がある江州県にいたる。その北にテンコウ県がある。その県とフ県とは、フ水でむすばれている。
成都からフ県までは360里(150km)であるから、劉璋は数日でフ県に到着したであろう。このときの劉璋は、歩兵と騎兵を三万余人率い、車にめぐらせた帳幔が陽光に美しく光った。 
「おお、よくぞ、よくぞ」 
劉璋は劉備の到着を声をあげて喜んだ。そのうしろに張松の冷静な目がある。 
会見の席で劉牧を殺せば、あらたな益州がはじまる
 と考えている張松は、劉備を先導してきた法正をひそかに招き、 
「会所において劉璋を襲うべきである、と申し上げよ」
と指図を与えた。劉備軍の営所にもどった法正は、内密なお話があります、とホウトウに張松の意望を伝えた。 
「なるほど、それを敢行すれば益州は一日で主のものとなる」 
すぐさまホウトウは劉備に密計を献じた。 
「孫堅と孫策はそのように障害を排除して勢力を拡大したのです。張松がそう言うかぎり、劉璋が急死しても動揺する蜀軍を抑えきる自信があるのです。これは天与の機です。のがしてはなりますまい」 
が、劉備は性急を嫌う。 
「これは大事であるからあわてるべからず」
 孫堅は名声を、孫策は江南の地を得たが、無理をしたせいでその終わりが悪い。だいいち曹操が会見の相手を暗殺したことがあるか。 
… 
「わたしのために劉豫州が戦ってくれるのだ。資給せずばなるまい」 
と言った劉璋は、米20万斛・馬千頭・車千乗・絹織物などを劉備に送り、蜀兵を付属させた。それにより劉備は三万の兵を指揮することになった。 
「わたしは成都に帰る。不備のないようにあとはたのんだぞ」 
と言いつけられた張松は、 これで劉備に会える と喜んだ。劉璋を見送った張松は物資の搬送を督促すると同時に、 
「ともに張魯を攻めるのだ。交歓の会をもとうではないか」 
と、蜀の将士に声をかけて、劉備の配下を招待させた。燕娯の時をもった劉備軍の将士は、 
「こんどはわれらが招待したい」 
と、蜀の将士を歓待し、もてなしの応酬がつづいた。その間に劉備に謁見した張松は、 
「法正をかいしてお願いしたことをおいれくださらなかったのは、あなたさまに深玄の心があるからでしょう。ほどなく大事が決行されると信じて、蜀についてはすべてを申し上げましょう」 
と述べ、蜀の闊狭の地・兵器・府庫・人馬の衆寡および諸要害と道里についてつぶさにおしえた。 
「あなたの厚情は生涯忘れぬ」 
感動した劉備は張松を厚くもてなした。劉備を観察した張松は、 
このひとの心ははかりがたい 
と不安をおぼえたので、帰り際に法正に会って、
 「まさかまともに張魯を攻めることにはなるまいが、途中で兵をかえして、成都を攻めるよう献策すべし。成都で会おう」 
と強く言った。ふたりは目で微笑を送りあって別れたが、運命の残酷さというべきか、再会することはできなかった。 

三国志7 宮城谷昌光p.222.