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地相品

龍樹の仏教 細川巌p.82~90. 
菩薩とはどのような存在であるか? これに答えるのが地相品であり、後に釈願品である。今は地相品について述べる。 
「初地の菩薩の相貌はどのようなものか?」 
「堪忍し争いを好まず、心に喜びが多いこと。常に信心を喜ぶこと、人々に対する悲しみの心をもち、瞋りの心が少ないこと、これがその相だ」

 この相の中心となるものは何であろうか。龍樹は以上の相の次に、「初地の菩薩は歓喜多し」ということと「怖畏なし」ということを長々と述べている。とくに入初地品の後半から、しきりに「歓喜」を力説している。したがって「菩薩の相貌はいかなるものか?」という問いに対しては「歓喜にみちている」と答えることができる。 
次にこの菩薩がなぜ歓喜にみちているかと自問し、答える。 
「常に諸仏を念じ、常に諸仏の大法を念じ、常に必定の菩薩を念じ、第一希有の行を念ずる。この故に歓喜多し」 
すなわち菩薩は念ずる世界をもっている。 
「諸仏を念ず」ということを釈して、諸仏とは「燃燈仏等の過去仏、阿弥陀仏等の現在仏、及び弥勒仏等の未来仏である」という。ここに阿弥陀仏という名が初めて出され、しかも現在仏といっている。『十地経』では、仏は釈迦牟尼仏と盧舎那仏等であって、阿弥陀仏の名は見当たらない。しかるに龍樹において初めて阿弥陀仏ということがここでいわれるのは極めて注目すべきことである。過去仏も未来仏もすべて現在仏に摂まる。諸仏はことごとく阿弥陀仏に摂まるのである。このことは後に易行品においてさらに明らかである。龍樹が『十住毘婆沙論』において諸仏といっているのは、阿弥陀仏であることを銘記したい。 
最後に「第一希有の行を念ずる」とある。第一希有の行を龍樹は、「一切凡夫の及ばざる所」といい、また「一切声聞辟支仏の行う能わざる所」といい、さらに「仏法の無碍解脱、及び一切種智を開き示す」ものといっている。




入初地品その2

「発心して必ず無上道を成就してこそ菩薩というのである。しかしただ発心しただけの者も菩薩ということがある。初発心を離れては無上道を成ずる者はいないからだ。初発心から無上道まで、過去・現在・未来にたくさんの菩薩がいる」 
これは前にみました。
クラス:菩薩、Lv.1からLv.100です。
初地は、「おお○○○○!しんでしまうとはなにごとだ!」みたいなことがなくなるレベルです。
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龍樹の仏教 細川巌p.75,76,77. 
「すべての人が初発心のとき、仏力をえて、このような菩提心(無上菩提心・アノクタラサンミャクサンボダイ心)をおこし初地に入るのか?」 
「そうではない。たとえば釈尊も初発心のとき初地に入ったのではない。初発心の後に功徳を修集して如来に値遇し、必定地(初地)に入ったのである」
 「それならばなぜ、大心発願して必定に入る、というのか?」 
「それは菩薩の中には初発心で必定に入り、無上菩提心をもって初地を得る者がある。この菩薩のことをいっている。無上菩提心は一切煩悩をまじえず、一切外道・一切衆魔によって壊せられず、この心はつねによく善根を集め、仏法を摂し、平等で一切衆生に等心をもち、心清浄で無垢であり、一切衆生を捨てず、無量の功徳をはらんでいる」

 初地の菩薩の誕生はただ仏力による。釈尊もそうであった(如来に値遇した)。しかし、ひとり初発心のときに無上菩提心(仏心)を得る者がある。彼だけが初めから清浄無垢の心をもち、直ちに十地の菩薩(Lv100)となる。易行品にある、十仏・百仏・無量の菩薩として展開する阿弥陀仏である。如来が菩薩となる。これを従果向因(果より因へ向かう)のはたらきという。この菩薩においてのみ初発心即無上菩提心である。この菩薩(如来)に導かれて初めて生死海の衆生が初地の菩薩として誕生する。




入初地品

龍樹の仏教 細川巌p.62~72. 
いかにして入初地するか。この問いに答えるのが入初地品である。このことは後に易行品で具体的に詳説される。 

「もし厚く善根を種え、善く諸行を行じ、善く諸の資用を集め、善く諸仏を供養し、善知識に護られ、深心を具足し、悲心あって衆生を念じ、無上の法を信解す。この八法を具し已って、当にみずから発願して言うべし。われみずから度することを得已って、当に衆生を度すべし。十力を得るがためのゆえに必定聚に入り、則ち如来の家に生じて諸の過咎にあることなし。則ち世間の道を転じて出世の上道に入らん。これをもって初地を得。此の地を歓喜と名づく」 
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厚く善根を種える:善根とは不貪・不恚・不痴をいう。
善く諸行を行ず:諸行とは持戒をいう。 
善く資用を集める:資用は資糧ともいう。仏道の材料になる。上の偈にある八法のこと。 
深心を具足す:深心は菩薩のおこす発心をいう。
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『十地経』では前に述べたように金剛蔵菩薩が解脱月菩薩の請いにもかかわらず十地の義を説くことを拒否し、「十地の義は微妙にして甚だ解し難く、人間の思量の及ぶ所にあらず、ただ智者のみ行ずる処なり」と述べて何度も請いを退けている。しかし厚種善根というような行者のはたらきで無上菩提心をおこし、入初地できるのであれば、何の不可思議もなく、金剛蔵菩薩が説くことを拒む理由は見出せない。対し、厚種善根以下八法が因ではなくて、これらを資用として何かがはたらいて無上菩提心がおこるのであれば、その「何か」がたいへん大事なもので、これが常人の感知することのできない不可思議のものであることがうかがえる。そこに金剛蔵菩薩のことばが生きてくる。 

「十力とは何か?」 
「真実智慧のはたらきをいうのだ。この仏力をえることができて大心発願し、即座に必定地に入るのである」

 鈍根懈慢の者はみずから無上菩提心をおこすことができず、ただ仏力によって発願する。しかしその仏力は何もせずにえられるというのではない。厚種善根以下八法が資用として必要である。けれどもこの資用がどの程度あつまるのかは、のちに阿惟越致相品で敗壊の菩薩としてあきらかにされる。つまり十分にはあつまらないのである。しかしその敗壊の菩薩の上に仏力が成立する。それはいかにして実現するか。その過程・内容が発菩提心品以下易行品までの記述となっている。そこに『十住毘婆沙論』の中心がある。