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仏陀最後の旅

「サーリプッタよ。過去・未来・現在の諸仏の心を知る智がおまえには存在しない。ではサーリプッタよ。「わたしサーリプッタは尊師に対してこのように信じています。尊師よりさらにすぐれた他の者は、過去にもいなかったし、未来にもいない。また現在にも存在しないでしょう」と言ったのは何故であるか」
 →現に諸仏は在す。 


「アーナンダよ。ここに立派な弟子がいて、仏陀に対して清らかな信を起こしている。「かの尊師は、①真人・②正しくさとりを開いた人・③明知と実行とを完成している人・④幸いな人・⑤世間を知る人・⑥無上の人・⑦かたくなな男を統御する御者・⑧神々と人間との師・⑨仏陀・⑩尊師である」と」 
→①~⑩は仏の十号で、名号のように称えた。

 「アーナンダよ。僧たちはわたし(如来)に何を期待するのであるか。わたしは内外のへだてなしに教えを説いた。如来の教えを弟子に隠したりしない。「わたしは僧たちを導くであろう」とか、「僧たちはわたしにたよっている」と思うならば僧たちに何ごとかを語るであろう。しかしわたしは、「わたしは僧たちを導くであろう」とか、「僧たちはわたしにたよっている」とか思っていない。わたしは僧たちに何を語るであろうか」
 →如来にたよらない僧たちに語ることはない。「わたしはかれらの師ではない」。 

大乗経典の『涅槃経』は、次のように語りだされる。 
「わたくしはこのように聞いております。それは二月十五日のことでした。仏陀が涅槃に入ろうとするとき、次のようにことばを下された。「わたしは、わが子ラーフラを見るように、今もこれからも、あらゆる生き物をひとしく見ていく。わたしはあらゆる生き物の頼りとなる。屋根となり、小屋となり、部屋となり、住居となって、あらゆる生き物を守護していくであろう」と」 
→如来に頼る。 

「怠ることなく行を完成なさい」 
:釈尊さいごのことば。 

仏陀最後の旅 岩波文庫p.30,50,64,168,239,252. 
仏陀と神々の物語 大角修 p.136.




劉備

(214)夏にラク城は陥落した。 
劉備軍は進撃してついに成都を囲んだ。張飛・趙雲・諸葛亮の三軍が成都にむかっていることを知っているが、劉備はひとつの奇画を実行に移した。
 いまなら馬超を従属させられよう。 
じつは馬超の密書が劉備のもとにとどいたのである。 
… 
「やあ、そろったか」
 最後に到着した趙雲の顔をみた劉備の声は明るかった。馬超・張飛・趙雲という剛邁な将がそろえば、明日にでも総攻撃をおこなって成都にのりこんでゆけそうであるが、 
「戦いはおさめかたが肝要よ」 
と劉備は諸葛亮に諮って、簡雍を遣って劉璋を説得させることにした。
簡雍はふしぎな人格をもっている。城内に入った簡雍は、例によってなまぐさい話をまったくしなかった。のびやかに諷刺の論を展開して、こわばった心の劉璋をついに笑わせた。 
「これほど豊かな気分になったことはない」 
劉璋は簡雍の話を好み、一泊させ、二泊させた。簡雍にもどりたいという様子がまったくないので、劉璋はいぶかしげに、 
「あなたは劉玄徳にいいつけられて、わたしに降伏を勧めにきたのではなかったのか」 
と問うた。簡雍は横になったまま、 
「わたしは玄徳とおなじタク郡の出身で、昔なじみといってよく、玄徳が挙兵したときから付き従ってきましたが、いちどもいいつけられたことはありません。このたびも、劉益州さまと話をしてきてはどうか、と言われただけで、降伏を勧めよと命令されたことはありません」 
と、聞いていると眠くなるようなゆるやかさで話す。 
「ほう、では一年間ここにとどまってもらいたいとあなたに言えば、とどまってくれるのか」 
「いうまでもないことです」 
「劉玄徳はまさかあなたが帰るまでこの城を攻めぬというわけではあるまい」
 「どうでしょうか。曹公を殺せという密詔を得て、曹公を殺せばたやすく天下をとることができたのに曹公のもとから去り、襄陽を攻めればたやすく荊州をとることができたのにただ逃げただけで、荊州を得るのに歳月を費やさねばならなかった。劉益州さまとフ県で会談したさいに、暗殺という手段を選べば一日で益州を入手することができたのに、これほど長く益州にとどまってしかも成都をおとせない。策のない男ですから一年間包囲を続け、城を眺めているだけかもしれません。曹公へ密使を急行させれば玄徳を追い払うことができましょう」 
劉璋は瞠目したあと唇をかんだ。 
涼州では夏侯淵が叛乱勢力を次々に潰滅させているようである。その軍を益州にいれると劉備軍は成都の包囲どころではなくなる。劉備はほんとうに益州をとりにきたのか。とりにきたとすれば手際が悪すぎる。 
「劉玄徳は英雄であろうか」 
「漢の高祖は色を好み、そのはなはだしさに夏の桀王、殷の紂王のようだと申した者もいます。それでも英雄だったのは、楚の項羽に殺されなかったためです。玄徳も、曹公と戦えばかならず敗れ、それでも生きのびている。英雄でしょうか」 

三国志7 宮城谷昌光p.287.




ホウトウ死ス。

緜竹にいる劉備は、 
「城攻めはどうなっているのか」 
といちどもホウトウを問責しなかった。墨子が守っているのではないかぎり落ちぬ城はないと思っているようで、悠然と春を楽しんでいる。ラク城と成都とは交通が遮断されている。それはわかるが、劉璋がまったく援助の手をさしのべないのが解せない。ラク城を援けるべく益州の各地から兵がたってもよさそうなのに、それもないというのも不思議であった。
 益州をとれ、と本当に天と地の神がいっているのか。 
ある日、城の外にでた劉備は青天をみあげて深く呼吸をしてから城内にもどり、書状をしたためて人をよび、 
「これを公安の諸葛亮に」 
といいつけた。書状の内容は、軍旅を催して益州に攻めこむべし、というものである。これはラク城攻略の加勢を求めたわけではない。荊州兵で諸県を降し、成都を攻めるというものである。 
… 
いま曹操はギョウにいる。もはや国をさずけられて魏公となった。戦乱の騒がしさがあるのは涼州であり、馬超はけっきょく敗れて逃走したようであり、韓遂がいま夏侯淵と戦っているらしい。荊州が急に曹操軍に攻められることはなさそうであるが、もしも南郡にいる関羽を益州にむければハン城にいる曹仁が急速に軍を南下させるであろう。それは劉備も充分に認識していて、関羽には特別に使者をさしむけたと書状にはあったが、念のため諸葛亮は関羽のもとへ使者を送ってから、諸将をあつめて劉備の書状を示し、 
「ただちに益州へ征きます」 
と告げた。 
出発前に諸葛亮は治中従事のハンシュンを招いて、 
「荊州の政務はあなたにまかせます。ここ公安は曹操軍にも孫権軍にも急襲されない位置にありますが、万一のときは関将軍に救援を請うてください」
 と気負いのない口調で言った。ハンシュンの事務能力は抜群であり、しかも不正を憎んでいるので、公安をあける諸葛亮には不安がない。 
「ご成功をいのっております」 
とハンシュンはきまじめに言った。 
「では」 
とみじかく言った諸葛亮は公安をでた。はじめて劉備に会って、荊州と益州を支配すべきであると説いてから七年になる。 
… 
ホウトウが戦死した。この戦死の遠因は、劉備が諸葛亮ほか諸将を荊州からたたせたことにある。すなわちホウトウは劉備の本意を誤解して、 
ラク城攻めの将帥を諸葛孔明にかえようとなさるのだ
 と思い込んだ。あせりをおぼえたホウトウは、諸将の難色を無視してみずから先陣にたって必死の総攻撃をおこなった。そしてホウトウは飛矢に貫かれて斃れた。ときに36歳であった。あとでその存在の大きさを痛感する劉備は、かれの話をするたびに涙をながすことになる。 

三国志7 宮城谷昌光p.279.