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このように学べ。

「高貴なる観自在菩薩が深遠な般若波羅蜜多の修行を実践しているとき、五蘊あり、しかもそれらは自性空であると見極めた」 
自分とは何だろうか。それをつきつめていくと、体がある(色)・感覚がある(受)・イメージをもつ(想)・深層意識がある(行)・判断をする(識)、この五つがある。薀はたくわえを意味し、サンスクリットでスカンダといい、本来の意味は「木の幹」で、ここでは自分という経験主体を構成する基幹的な要素という意味だ。 

「五蘊あり、しかもそれらは自性空である」

 自性空は「それ自体が存在しない」という意味だから、五蘊自体が存在しない、すなわち五蘊はないと言っている。この一文は常識の立場で読めば、「Aはある、しかもAはない」という一見まるで矛盾したことをいっているとしか思えないが、『般若心経』は徹頭徹尾マントラ念誦の指南書であり、「このように観よ」と指示する。 

真釈 般若心経 宮坂宥洪p.50,72,75.




仏説般若心経

玄奘訳『般若心経』は小本といって、略された経典である。経典としての形式をもつ、大本もある。それには次のようにある。 
「このようにわたしは聞いている。あるとき世尊は、大勢の比丘の一団と大勢の菩薩の一団とともに、王舎城の霊鷲山にいらっしゃった。そのとき世尊は深遠なさとりと称する三昧に入られた。ときあたかも高貴なる観自在菩薩大士は、深遠な般若波羅蜜多の修行を実践し、そのさなか、見極めた。五蘊あり、しかもそれらは自性空であると。そこでシャーリプトラ(舎利子)長老は仏の神通力により、高貴なる観自在菩薩大士に次のように問うた。もし良家の子が深遠な般若波羅蜜多の修行をしようと望めば、どのように学べばよいであろうか、と。こう尋ねられて高貴なる観自在菩薩大士はシャーリプトラ長老に次のように答えた。シャーリプトラよ、もし良家の息子なり娘が深遠な般若波羅蜜多の修行を実践しようと望むならば、次のように見極めるべきである。五蘊あり、しかもそれらは自性空である、と」 
このあと観自在菩薩の語る内容が『般若心経』の本文を構成している。本文は大本・小本ともにほぼ同じである。語り終えると釈尊がようやく口を開き、観自在菩薩をほめたたえ、それを聞いて聴衆がよろこぶ場面が記されている。 
「シャーリプトラよ。深遠な般若波羅蜜多の修行をするときには、菩薩はこのように学ぶべきである。そのとき世尊はかの三昧よりおきて、高貴なる観自在菩薩大士をほめたたえた。善いかな、善いかな、良家の子よ。まさにそのとおりだ。良家の子よ。深遠な般若波羅蜜多の修行を実践するときには、そのように行うべきなのだ。汝によって説かれたことは、如来たちもお喜びになろう。世尊は喜びにみちた声でこのように述べられた。長老シャーリプトラ、高貴なる観自在菩薩、一切の会衆、および神々や人間や阿修羅やガンダルバ(音楽の神)を含む世界の者たちは世尊のお言葉に歓喜した」
 釈尊が三昧に入る場面は、釈尊が観自在菩薩と舎利子の対話を生みだすことを意味する。 

真釈 般若心経 宮坂宥洪p.28,33,36.




母よ、どうかさとりをもたらしたまへ

「般若波羅蜜多の大いなるマントラ、大いなる明知のマントラ、この上ないマントラ、比類なきマントラは、すべての苦を鎮めるものであり、偽りがないから、確実なものである。般若波羅蜜多の修行で誦えるマントラは次のとおりである。 
ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー
ボーディ スヴァーハー 
以上で、般若波羅蜜多のマントラ、提示し終わる」

 『般若心経』は、実にこのマントラを説く経典である。マントラという語はインドでは古くから用いられていて、もとはバラモン教聖典『リグ・ヴェーダ』の讃歌がマントラと呼ばれていた。対して、仏教独自のマントラとして大乗仏教徒が掲げたのが般若波羅蜜多であった。初めの頃はバラモン教を意識してかマントラとは言わず、ヴィディヤー(明呪)とかダーラニー(陀羅尼)と呼ばれていた。これが仏教のマントラなのだと最初に宣言した経典が『般若心経』だった。観自在菩薩が般若波羅蜜多の修行を実践し、そのマントラを説き示すというこの経典の場面設定こそが他の般若経には見られない特色で、そのマントラは「仏母」としての般若波羅蜜多に対する祈りの言葉である。「般若波羅蜜多はこれ諸仏の母」ということは、他の般若経でも頻繁に述べられている(玄奘訳『大般若波羅蜜多経』「初分仏母品」、羅什訳『大品般若経』「仏母品」「法尚品」参照)。
 般若波羅蜜多はプラジュニャー・パーラミターの音写語で、プラジュニャーは智慧、パーラミターは完成の意味である。プラジュニャーは知るを意味する動詞語根ジュニャーに、接頭辞プラがついた語の名詞形で、プラは前方に進める意だから、プラジュニャーは「前方に進める智慧」のことだ(さらなるたかみへ!)。ここで考えてみなければならないことは、般若波羅蜜多を「智慧の完成」と訳してしまってよいのかということである。「智慧を完成させること」なのか、「智慧という完成」のことなのかという問題だ。つまり智慧という目標にむかってそれを完成させようと歩んでいくことなのか、智慧という完成された状態なのか、どちらなのか。サンスクリットの合成語を解釈する厳密な方法によると、これは「智慧という完成」が正しい。そもそも智慧自体が完成されたものだから(仏母)、それを完成させるということは意味をなさない。般若波羅蜜多は「智慧という完成された状態」だから、智慧「の」完成ではなくて、「智慧という完成」で、般若波羅蜜多の修行は、智慧そのものに立脚する(他力)。 

真釈 般若心経 宮坂宥洪p.15,26,45,61,62,180,214.