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易行品

易行品は真宗の人たちがネット上にあげてくれているので読んでみてください。 
龍樹の仏教 細川巌p.155 

「汝、もし必ずその道を聞かんと欲するならば、今まさにこれを説くべし」

 龍樹はまず偈を説いて十方十仏をあげ、「もし人、疾く不退転地に至らんと欲する者はまさに恭敬の心をもって執持してその名号を称すべし」と勧める。 

「もし人あってこの諸仏の名を説くを聞き得れば即ち無量の徳を得ること宝月経に説くが如し。われこの諸仏を礼したてまつる。今現在十方にまします。その名を称すれば即ち不退転を得」 

「過去無数劫に仏ましまし、海徳と号す。かの諸の現在仏は皆、この仏に従って願をおこせり。海徳仏は寿命無量・光明無量で、国土は甚だ清浄であり、名を聞く者は定んで仏となる。今十方に現在する諸仏は皆、この海徳仏の力によって仏功徳を具足し、十力を成就す。この故にこの仏を稽首し礼したてまつる。人天中の最尊にてまします」 

『無量寿経』上巻のおわりに華光出仏が説かれている。
「一一の華の中より三十六百千億の光を出す。一一の光の中より三十六百千億の仏を出す。身色紫金にして相好殊特なり。一一の諸仏、また百千の光明を放ち、普く十方のために微妙の法を説きたもう。かくの如きの諸仏、各々無量の衆生を仏の正道に安立せしむ」 

阿弥陀仏(海徳仏)から諸仏が生まれる。
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龍樹菩薩の生まれたのは小乗の時代でした。小乗の人たちは人格神的仏菩薩によらないで、哲学にはしりました。対して大乗仏教は「仏・大菩薩が大宇宙にたくさん存在する」という立場です。 易行品には多くの仏菩薩の名があり、それは阿弥陀仏のマンダラのようです。仏教がかくされていく時代に、大乗の世界をあきらかにすることが龍樹菩薩の使命でした。諸仏の「宗教」の大乗と、哲学という「おままごと」の小乗との違いです。




アユイオッチ相品

今期はペルソナ5をみます。
最高ペルソナは大勢至菩薩。 

龍樹の仏教 細川巌p.139 
阿惟越致は阿毘跋致ともいわれ、訳して不退転といい、また必定ともいう。反対に退転の危機をはらんでいる段階を惟越致という。 
「菩薩の中に、阿惟越致の菩薩と惟越致の菩薩とがあるというが、それらの様相はどうか?」 
「一切衆生に平等な心をもち、他の人の利養を嫉妬せず、たとい命を失っても説法をする人の過失を言いたてない。深く仏法を信楽し、恭敬を貪らず、この五つのものがらを具えた者が阿惟越致の菩薩である」 
「さきに諸仏菩薩に恭敬せよと君はいったが、衆生に対しては何もいっていない。今、一切衆生に対して等心無二であれというのはどういうことをいうのか?」 
「もし衆生あって、菩薩を見ること、怨み深い盗賊のように見る者あり、また父母のように親愛して見る者もあり、またその中間の見方をする者があっても、このような三種の衆生に対して、すべてを利益し助けたいと思い、心に何らの差別がない。これを等心衆生というのだ」 


阿惟越致相を説くおわりに龍樹は次のように言う。
 「あるいはいまだこのような相を具足していない者がある。これはまもなく阿惟越致に入る者で、後の諸地(上地の大菩薩)に随って善根を修集し、その善根が深まるに随ってこの阿惟越致相を得るにいたるのである」 
(或はいまだ具足せざる者あり。何者かこれや、いまだ久しからずして阿惟越致に入る者なり。後の諸地に随ひて善根を修集し、善根転深に随ふが故に、この阿惟越致相を得) 

「多く成就せず」といわれた存在(敗壊の菩薩)でありながら、上地の大菩薩によって善根を修集して不退転に入る者(転進の菩薩)がある。いわば不可能から可能に進展した存在である。ここにわたしの道がある。それを示すのが次の易行品である。




調伏心品

Fate/EXTRA Last Encoreは名作です。
善知識により敗壊の菩薩に火が燈る。 
七天の海の果てに釈尊が待っている。 

龍樹の仏教 細川巌p.133 
「菩提心を失うような法(ものがら)とは何か?」
「一には不敬重法、二には驕慢心、三には妄語無実、四には不敬善知識がそれだ」 
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不敬重法:仏教を喜ぶ思いをなくすこと。
驕慢心:もうわかったと思うその心。 
妄語無実:あざむくことば。 
不敬善智識:たとえば源空聖人をあなどるなど。
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「ほかにまだあるか?」 
「最要の法を惜しんで与えない。小乗の楽しみを貪る。菩薩を誹謗する。求道者を軽賤する。これらもまた同様である」 
「またもろもろの魔事をさとらず、菩提心劣弱であること、および業障と法障、これら四つもまた菩提心を失わせる」 
「魔事とはどんなことか?」 
「仏の教えが説かれるとき、はやくそれを喜べないこと。これが魔事である。喜んで説法を聞いているとき、いろいろなことがおこって妨げられること。これも魔事である。経典を読んだり、説法を聞いたりしているとき、心のなかにいろいろなものがおこって集中できない。これも魔事である。またお互いに話し合うとき、意見が対立し、本当のわけがらが通じないようになる。これも魔事である。説法の座で、「自分には関係がない。聞きたくない」などという心がおこって、とうとう帰ってしまう。これも魔事である。説法のなかに、政治や戦争や経済や世間の愛憎や父母兄弟、その他の男のこと女のこと、着物、食べ物、くすりのことなどが説かれると、それによって心が散乱したり、またそれに喜んで仏教の心を失ってしまう。いずれも魔事である。また説法のなかで地獄の諸苦を説くとき、このような苦しみをはやくすべて尽して涅槃をとることが利益であると説く人がいたり、あるいは世間での金儲けや立身を称讃し、そのようなものをとるのが利益であると説く人がいるが、これらはいずれも魔が説教者に化けているのであって、これらの内容ことごとく魔事である。このように一切の善法にたいして障害になるものをすべて魔事という」
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*ウィキペディアから原典にとべるので読んでみてください。というのも「龍樹の仏教 細川巌」では原典の涅槃という言葉が浄土になっていたからです(上の文ではぼくが原典どおりになおしました)。この箇所を読んで違和感があったので原典をみたら浄土という言葉はありません。ここで魔としている涅槃は小乗の涅槃です。静寂の死です。浄土系の人は涅槃という語と浄土を混同しがちです。 
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龍樹はさらに次々に別の四法をのべ、総計20のものがらをあげてこれを失菩提心法としている。衆生(わたし)は発心しても失菩提心法のなかに引き込まれ、発心の成就しない存在に堕してゆく。調伏心品は「わたしの現実」を知らせるものである。