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ペルソナについて

キリスト教の神は人格(ペルソナ)神である。「人格神」は誤解を生じやすい概念で、例えば「本当の神はそのようなものではない。人格神を突破して根源に至らなければならない」とかいわれる(禅の連中が浄土教をバカにするのと似ている)。 

御父と御子と聖霊とは 
「一つのエッセンチアであって三つのペルソナである」
(西方教会) 

一なる神が三つのペルソナの区別を含むのは神が、理解し愛するはたらきの神であることにその根拠をもつ。 

御子が御父とともにはたらいて聖霊を発出せしめる。それは「愛」のはたらきである。西方教会によれば、神は御自身を理解することにおいて御自身の似像(みことば・子)を御自身のうちに生みだす。このようにして神の理解のはたらきによって生み出された子と父との間には愛(聖霊)が生じる。これは永遠におけることがらであり、神が在ることは聖霊の発出がたえず行われていることを意味する。 

ところでわれわれ個々の人間も、理解し愛するはたらきの主体であるかぎりにおいて、それぞれ一個のペルソナである。神を愛するならば、神とその人との間には相互に理解し愛し合う者の間のペルソナ的関係が生じ、この関係のうちに在るペルソナにとって、神はペルソナ的神(人格神)以外にない。それゆえ、神を人格神とよぶことは、神と愛のペルソナ関係において在る人のみになしうることである(禅の連中は阿弥陀仏について本来的に何も言えないんだよ!)。 

神と親密になればなるほど、ペルソナ性を失うどころか逆に、神のペルソナ性はいっそう増す。 ペルソナとは、理解し愛する主体である。 

参考文献 
アウグスティヌス講話 山田晶p.113,132,133,139,141,143.