So-net無料ブログ作成
前の3件 | -

成道

ボサツがさとりに達したのは夜のうちの最高の時刻、つまり夜から朝になるその刹那であった。「明星の出づる時」である。 
『華厳経』寂滅道場会の説示をみてみよう。 

世尊(釈尊)が正覚を成じたとき大地は浄められ、種々の宝華・宝玉をもって大海のごとく荘厳された。その場には普賢菩薩・文殊菩薩らの諸菩薩が十方より参集し、諸天・諸王も数限りなく参じていた。そのとき世尊は智慧の光明を放って闇を照らし、十方無量の諸仏国土を顕現させた。菩薩らは、
「いったい仏の世界とは何であろう。仏の智慧の海と衆生の迷いの海は、いかなるものであろうか」
と思った。そのとき世尊は、また、身体から幾筋もの光線を放った。その光線は無数に分岐して無量の仏国土を照らしたので、菩薩らはヴァイローチャナ(太陽のように輝くもの)の蓮華蔵荘厳世界海を見ることができた。蓮華蔵世界は虚空にあって、無量の世界海が重なりあい、頂上の海には大きな蓮華が咲いている。そのとき普賢菩薩が蓮華蔵世界の獅子座に坐し、仏の不可思議な力に助けられて、ヴァイローチャナ仏身とよばれる三昧に入った。そして、深い三昧から意識をおこして、このように語った。
「すべて仏の子らよ。一切諸仏の智慧の海は仏の威力によって虚空においてゆるがない。そして、ヴァイローチャナの国土はひとつひとつの小さな塵の中にもあり、それらの小さな塵の中から仏の雲が湧いて一切をつつんでいます。一は即ち多であり、多は即ち一なのです。すべて仏の子らよ。仏の身体の毛の孔にも、そのひとつひとつに無量の仏国土が耀き、悠々と安定しています。そのひとつひとつの国土にそれぞれ仏がいて、ダルマを説いているのです」 
釈尊もまたヴァイローチャナの輝きのひとつなのであった。 


釈尊は成道の日から四十九日をさとりの世界に住し、それが過ぎたときに伝道を開始する。それは古代インドの神話群で世界の主、ブラフマー(梵天)の求めによるものだった。 
梵天が釈尊に告げる。 
「世に幸いなる仏陀、世尊に礼して申しあげる。神々と人々のためにダルマを説かれよ。わたしはあなたにそれを要請します」 
しかし釈尊はこの要請をしりぞける。 
「人はさとりを理解できるものではありません」
 「世尊よ。あなたは商主(隊商の主)であらねばならない。人々を導くことをわたしはあなたに要請します」 
「説けばかえって人々の心を惑わすことになります」 
「人々も神々も、魔を破る勝利者を待ち望んでいたのです。あなたがダルマを説かれるなら、人々はあなたについてあゆむでしょう」 
梵天は三度にわたって釈尊に説法を要請する(梵天勧請)。
釈尊は仏陀の眼によって世の中を観察する。 
人々のありさまは泥池のようである。けれどもそこに、これから開こうとするつぼみをつけて、蓮の花茎がのびている。仏眼により観察すれば、青・赤・白とさまざまな色の蓮華が、それぞれに美しく咲くのも見えるのだった。
泥の中から蓮華を咲かせるために、釈尊は伝道を決意する。 
「わたしは汝の請いをいれて  甘露を雨のようにふらせよう。 すべての世間のものたち 神々も人々も龍神も 信仰のあるものは この法を聴くがよい」 


釈尊ははじめに、苦行をともにしたコンダンニャら五人に説いてみるのがよいと判断した。コンダンニャたちは、聖地ワーラーナシー(ベナレス)に近いサールナート(鹿野苑)で苦行を続けていた。そしてゴータマが苦行をやめたことに対する失望と怒りは、まだおさまっていなかったのである。それで、釈尊が近づいてくるのを見ても、かれらは相手にしないことにした。しかしいよいよ間近に釈尊が見えると、あたかもかごの中の鳥が火であぶられたときのように、じっとしていることができずにみな思わず立ち上がり、礼拝して釈尊をむかえ、あるいは履き物をそろえ、あるいは上衣を受けとり坐具をととのえ、足を洗い、最上の席に坐らせた。
五人は釈尊の顔色が以前とは全くちがっていて、その身から純金のような光明が輝きでていることに驚嘆した。しかし五人は前からの習慣で、「ゴータマよ」とか「友よ」と呼びかけた。
釈尊はおごそかに宣言した。 
「汝たちは如来(わたし)を「ゴータマ」とか「友」とかよんではいけない。わたしは仏陀になったのである。わたしに従って修行すれば、久しからずして汝たちも修行の理想に達するであろう」


 新釈尊伝 渡辺照宏p.199,213,218. 
仏陀と神々の物語 大角修p.76,77,78,79,230,231.




降魔

菩提座についたボサツはまず次のように考える。
 「この欲界においてはマーラが主人公である。彼の知らない間に無上正等覚をえることはわたしにとってふさわしくない。ひとつマーラを呼び出すことにしよう。わたしが仏陀となるありさまを見たならば無上正等覚へと志すことであろう」 
欲界は、わたしたちの世界を含めて、下は地獄から上は神々の世界の一部にまでおよんでいる。欲界の最高が他化自在天で、マーラはそこの大王だ。漢字で魔羅、略して魔。
魔王は娘たちを呼び寄せ、ボサツを誘惑することを命じる。仏伝には32種の媚態を示したと事細かに記してある。娘たちは話しかける。
「時は春、木も草もさかんに成長しています。人も若い間が楽しいものです。青春は二度とめぐってはきません。見ればあなたは若くて美しい。私たちのこの美しい姿を見てください。さあいっしょに遊びましょう。坐禅をしてさとるなんてとんでもないこと」 
ボサツはこれに対してやさしい言葉で諭してやる。
 「肉体の快楽には悩みが伴う。この道理がわからないので世間の人たちは情欲に迷っている。わたしは今、絶対的な自由に到達しようとしている。自分が自由になったうえで、世の人々をも自由にしてやろうと思っている。空とぶ風のように自由なこのわたしを、どうして繋ぎとめることができようか」 
魔女たちは手も足もでない。ボサツはさらに言葉を改めて諭してやる。 
「汝たちが今こうして天女の姿になれたのも、もとはといえば、善業を積んだからである。その根本を忘れて悪いことをすると、地獄に落ちて苦しまなければならない」 
魔女たちは心からボサツに敬意を表し、花を捧げる。そして魔王のもとに戻って報告する。 
「満月のようなきよらかなお顔、泥の中から抜け出た蓮華のようなお姿、朝日のようなほがらかさ、須弥山のようなおちつき、燃える火のような烈しい威光。あのお方はきっと生死を超越し、すべての衆生をお救いになります。父上、むだな反抗はおやめなさい。たとえ須弥山が崩れ落ち、日月星辰が落ちてくるようなことがあったとしても、あのお方だけはびくともなさらないでしょう」
魔王は怒りたち、暴力で屈服させようと企てる。だが魔の軍勢をもってしてもボサツには指一本ふれることもできない。そのうえ、将軍たちもボサツに心をよせていく。魔王はたまりかねて自分の手でさまざまな武器を投げつけ、矢を放ち、火の塊を放つ。しかしものものしい武器も矢もボサツの身辺にくるとみな美しい花束となってあたりを飾り、おそろしい火の塊も天蓋となってボサツの頭上にみごとに垂れかかる。 
そこでこんどは世俗的権力を提供しようと甘言をもって近づく。 
「この世の支配者として皇帝になるがよい。さもなければ天上にのぼって私の位につくがよい」 
ボサツは次のように言う。 
「マーラよ。汝はたった一度の供養で欲界の支配者になったというにすぎない。それに比べわたしは数えきれないほど多くの生涯において、自分の身体でも持ちものでも、いくたびとなく衆生に施してきた。だから今、仏陀の位にのぼることができるのである」 
マーラは、それ見たことか、と大喜びで次のように言う。 
「過去において私が供養したことは汝が今証言した。ところが汝のことを証言する者は誰一人いない。この勝負は汝の負けだ」
 ボサツは静かに右手をさしのべる。その手には無数の生涯における善業の功徳がこもっている。その手で自分の頭をなで、脚をなで、手をのばして指先で軽く大地にふれる。 
「万物のよりどころであるこの大地、動くもの、動かぬもののすべてに公平なこの大地が、わたしのために真実の証人になるであろう。さあわたしのために証言してくれ」 
ボサツがこう言うと、たちまち大地が東西南北上下に震動し、かつ大きな音が響き轟く。そして大地の女神スターヴァラーがあらゆる装飾を身につけ、もろもろの大地の女神たちをともにつれ、ボサツの近くに地面を破って半身を現し、ボサツに礼拝し、言う。
「あなたのおっしゃるとおりです。私たちが証人になります。あなたこそは最高の権威者です」 
女神はマーラをひどく叱りつけ、ボサツにさまざまの供養をしてから姿を消す。 
マーラの完全な退散によって仏陀の位はすでに目の前にある。形式的にはまだ菩薩の位にありながら、すでに過去の生涯をはっきりと思い出し、自己の使命と権威とを明らかに自覚している。神々はボサツを礼拝し、天上の花を降らせ、栴檀の香を撒きちらす。 

新釈尊伝 渡辺照宏 p.169~180.




菩提樹

釈尊の80年の生涯のうちでもっとも重要な出来事は、いうまでもなく仏陀として自覚する夜のことである。
ボサツ(釈尊)はこの世に生まれる以前にはトソツ天に住んでいた。それは、さらにそれ以前のきわめて多くの生涯のあいだ、仏陀となるための修行を続けた結果、トソツ天に生まれたのであって、そこからこの世にくだるときには、まさにこの生涯において仏陀となることが確定していた。あらゆる人はこの世に生まれるとき、自分の前世のことをことごとく忘れてしまう。仏陀になってはじめて無数の過去の生涯のことを思い出す。したがって、太子であるあいだも、修行者となってからも、ボサツは自分の過去の生涯や現在の大使命のことをはっきり知っているわけではない。にもかかわらず、内面の声に導かれ、一歩一歩理想に向かって確実に進んでゆく。
 仏陀の自覚を無上正等覚という。最高の正しい完全なさとり、という意味である。そしてこれはただ仏陀のみにとって可能な状態である。わたしたちにはそれがどのようなものであるか知ることはできない。いくら経典をよんで想像をたくましくしても結局のところは想像の範囲を出ることがない。 
菩提道場はボサツが仏陀となるために特に選ばれた場所だから、マンダラといってもよい。そしてその場所に地中から金剛宝座が出現する。この宝座はダイヤモンドからできていて、地中深く金輪にまで達しているといわれる。菩提道場の特色は菩提樹だ。本来アシヴァッタとよばれていた樹だが、仏陀がさとりを開いた因縁から一般に菩提樹として知られる。坐禅によって瞑想し、霊的に高い段階を経験するが、それは同時に魔事を誘発する危機ともなる。インドにアーリア人が侵入する以前に栄えていたインダス文明の遺品に、樹木の神聖さを表現したものがある。インドでは樹木は智慧と生命の象徴とみられている。
釈尊の菩提道場は過去の仏陀たちの菩提道場でもあった場所であり、またそのさとりの前兆がやはり過去の仏陀たちとまったく同じであった、と仏伝に記されている。時間的には繰り返しで、空間的にいえば、同じできごとが、つまりまさに仏陀になろうとしているボサツが菩提樹に向かって歩むということが、限りなく多くの別の世界でも起こっている。仏伝によると、無量の菩薩たちや神々が、それぞれ自分のところの菩提樹を花や香などでさまざまに美しく飾りたて、妙なる音楽を響かせ、ボサツの到来を待っている。 
ボサツは静かに菩提樹に向かって歩を運ぶ。三千大千世界のあらゆる国土で、ボサツの壮途を祝って、大梵天王をはじめ、多くの神々がさまざまの奇跡を現している。ボサツの身体から一大光明が現れて、あらゆる世界を照らし出し、地獄に落ちている者さえもしばしのあいだ苦しみを離れることができる。
ボサツがこれと見定めた菩提樹につくと、まずまわりを三回めぐる。このように菩提樹に丁寧に挨拶してから、東を向いて草(卍草)を敷き、身を正して坐り、誓う。 
「この座においてわたしの体はひからびてもよい。皮や骨や肉が亡んでしまってもよい。いつの世にも得がたい、あのさとりに達するまでは、この座から決して立ち上がりはすまい」 

新釈尊伝 渡辺照宏p.160~168.




前の3件 | -