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劉備

(214)夏にラク城は陥落した。 
劉備軍は進撃してついに成都を囲んだ。張飛・趙雲・諸葛亮の三軍が成都にむかっていることを知っているが、劉備はひとつの奇画を実行に移した。
 いまなら馬超を従属させられよう。 
じつは馬超の密書が劉備のもとにとどいたのである。 
… 
「やあ、そろったか」
 最後に到着した趙雲の顔をみた劉備の声は明るかった。馬超・張飛・趙雲という剛邁な将がそろえば、明日にでも総攻撃をおこなって成都にのりこんでゆけそうであるが、 
「戦いはおさめかたが肝要よ」 
と劉備は諸葛亮に諮って、簡雍を遣って劉璋を説得させることにした。
簡雍はふしぎな人格をもっている。城内に入った簡雍は、例によってなまぐさい話をまったくしなかった。のびやかに諷刺の論を展開して、こわばった心の劉璋をついに笑わせた。 
「これほど豊かな気分になったことはない」 
劉璋は簡雍の話を好み、一泊させ、二泊させた。簡雍にもどりたいという様子がまったくないので、劉璋はいぶかしげに、 
「あなたは劉玄徳にいいつけられて、わたしに降伏を勧めにきたのではなかったのか」 
と問うた。簡雍は横になったまま、 
「わたしは玄徳とおなじタク郡の出身で、昔なじみといってよく、玄徳が挙兵したときから付き従ってきましたが、いちどもいいつけられたことはありません。このたびも、劉益州さまと話をしてきてはどうか、と言われただけで、降伏を勧めよと命令されたことはありません」 
と、聞いていると眠くなるようなゆるやかさで話す。 
「ほう、では一年間ここにとどまってもらいたいとあなたに言えば、とどまってくれるのか」 
「いうまでもないことです」 
「劉玄徳はまさかあなたが帰るまでこの城を攻めぬというわけではあるまい」
 「どうでしょうか。曹公を殺せという密詔を得て、曹公を殺せばたやすく天下をとることができたのに曹公のもとから去り、襄陽を攻めればたやすく荊州をとることができたのにただ逃げただけで、荊州を得るのに歳月を費やさねばならなかった。劉益州さまとフ県で会談したさいに、暗殺という手段を選べば一日で益州を入手することができたのに、これほど長く益州にとどまってしかも成都をおとせない。策のない男ですから一年間包囲を続け、城を眺めているだけかもしれません。曹公へ密使を急行させれば玄徳を追い払うことができましょう」 
劉璋は瞠目したあと唇をかんだ。 
涼州では夏侯淵が叛乱勢力を次々に潰滅させているようである。その軍を益州にいれると劉備軍は成都の包囲どころではなくなる。劉備はほんとうに益州をとりにきたのか。とりにきたとすれば手際が悪すぎる。 
「劉玄徳は英雄であろうか」 
「漢の高祖は色を好み、そのはなはだしさに夏の桀王、殷の紂王のようだと申した者もいます。それでも英雄だったのは、楚の項羽に殺されなかったためです。玄徳も、曹公と戦えばかならず敗れ、それでも生きのびている。英雄でしょうか」 

三国志7 宮城谷昌光p.287.




ホウトウ死ス。

緜竹にいる劉備は、 
「城攻めはどうなっているのか」 
といちどもホウトウを問責しなかった。墨子が守っているのではないかぎり落ちぬ城はないと思っているようで、悠然と春を楽しんでいる。ラク城と成都とは交通が遮断されている。それはわかるが、劉璋がまったく援助の手をさしのべないのが解せない。ラク城を援けるべく益州の各地から兵がたってもよさそうなのに、それもないというのも不思議であった。
 益州をとれ、と本当に天と地の神がいっているのか。 
ある日、城の外にでた劉備は青天をみあげて深く呼吸をしてから城内にもどり、書状をしたためて人をよび、 
「これを公安の諸葛亮に」 
といいつけた。書状の内容は、軍旅を催して益州に攻めこむべし、というものである。これはラク城攻略の加勢を求めたわけではない。荊州兵で諸県を降し、成都を攻めるというものである。 
… 
いま曹操はギョウにいる。もはや国をさずけられて魏公となった。戦乱の騒がしさがあるのは涼州であり、馬超はけっきょく敗れて逃走したようであり、韓遂がいま夏侯淵と戦っているらしい。荊州が急に曹操軍に攻められることはなさそうであるが、もしも南郡にいる関羽を益州にむければハン城にいる曹仁が急速に軍を南下させるであろう。それは劉備も充分に認識していて、関羽には特別に使者をさしむけたと書状にはあったが、念のため諸葛亮は関羽のもとへ使者を送ってから、諸将をあつめて劉備の書状を示し、 
「ただちに益州へ征きます」 
と告げた。 
出発前に諸葛亮は治中従事のハンシュンを招いて、 
「荊州の政務はあなたにまかせます。ここ公安は曹操軍にも孫権軍にも急襲されない位置にありますが、万一のときは関将軍に救援を請うてください」
 と気負いのない口調で言った。ハンシュンの事務能力は抜群であり、しかも不正を憎んでいるので、公安をあける諸葛亮には不安がない。 
「ご成功をいのっております」 
とハンシュンはきまじめに言った。 
「では」 
とみじかく言った諸葛亮は公安をでた。はじめて劉備に会って、荊州と益州を支配すべきであると説いてから七年になる。 
… 
ホウトウが戦死した。この戦死の遠因は、劉備が諸葛亮ほか諸将を荊州からたたせたことにある。すなわちホウトウは劉備の本意を誤解して、 
ラク城攻めの将帥を諸葛孔明にかえようとなさるのだ
 と思い込んだ。あせりをおぼえたホウトウは、諸将の難色を無視してみずから先陣にたって必死の総攻撃をおこなった。そしてホウトウは飛矢に貫かれて斃れた。ときに36歳であった。あとでその存在の大きさを痛感する劉備は、かれの話をするたびに涙をながすことになる。 

三国志7 宮城谷昌光p.279.




劉備の進撃

白水関の兵をおさえた劉備は全軍に、 
「成都へ征く」 
と告げて、黄忠と卓膺に先陣を率いさせた。劉備軍は白水関から葭萌を経てフ県にむかって猛進した。… 
忠、常に先登して陣を陥し、勇毅三軍に冠たり 
とのちに絶賛される黄忠である。 
「黄漢升には矢があたらぬのか」 
と他の将士にふしぎがられるほど、黄忠が敵陣に接近する速さは尋常ではなく、多くない兵を率いて直進し、防衛の陣に突入した。そのやぶれに後続の兵がつけこんで撃破した。こういうときの劉備は本陣をうごかすのが速く、敵の矢がとどくところまで進んで、励声を発した。劉備は大勝してフ県をとった(212年12月)。 
敗れた将士は緜竹までしりぞいて陣を布きなおした。敗報に接した劉璋は、歯噛みをして李厳をよび、 
「緜竹へゆき、軍を督いるべし」 
と命じた。 
… 
「主将(李厳)と佐将(費観)がそろって劉備についたとは」 
緜竹をまもっている諸将のなかで劉備に通じている者がいないとはかぎらない。それを想うと李厳と費観をののしる気力さえ萎えてくる。やがて劉備軍が動いたと知ると、かれらは疑心暗鬼となった。劉備軍は膨らんだため、一軍が二軍となり、さらに三軍となって諸県を攻略しはじめた。その三軍が集合して緜竹を囲むというけはいを察した城内の諸将は、脱出して炎暑の道をラク県へむかって奔った。ラク県は広漢郡のなかで最も重要な県で、郡府がそこにある。 
「ほう、緜竹があいたか」
 一笑した劉備はすみやかに本営を緜竹に移した。
 「ラク城の攻略はわたしにおまかせください」 
と自信ありげに言ったのはホウトウである。軍師中郎将であるホウトウがここまでの攻略図を画いてきたのであり、緜竹をたやすくえたのもかれの功である。そういう兵略の背後にある食糧供給に破綻を生じさせなかったことこそ、ホウトウの最大の功である。この軍は飢えたという貌をいちどもしたことがない。しかもこの軍は敵国の最も深いところにいながら包囲されたことがなく、兵威によって県の官民を服従させもするが、徳声によって靡然とさせたりもする。それをおこなったのはホウトウであり、かれは兵略における眩人であるといっても過言ではない。白水関から緜竹まで進出するのに月日がかかりすぎているようにみえるのは、軍事の裏面が史書では省略されすぎているからである。 
「ぞんぶんにやるがよい」 
劉備は緜竹にいて、ラク県の包囲をホウトウにまかせた。ラク県をまもっているのは劉璋の子の劉循である。 
夏がおわるまでにはラク城をとりたい。
 ホウトウはこの戦いを楽観していた。だがラク城は連日連夜の猛攻をしのぎきった。30日がすぎたとき、 
「緜竹とこの城の何がちがう」 
とホウトウはさけびたくなった。むろん緜竹にいなかった劉循がこの城にはいるということである。兵は疲れはてて、はつらつさを失った。こういうときに急襲されるとひとたまりもないと思ったホウトウは、 
「塁塹を堅固にせよ」 
と諸将に命じ、防備を厚くした。 
生彩のない秋となった。その秋がおわり、無表情に冬がきた。寒さは人の動きを鈍くさせる。雪がふれば人は動かなくなる。ラク城も自軍も静かに呼吸しているだけである。 
これでも戦いなのだ。 
雪の上に立ち、ラク城をながめつつホウトウは嘆息した。白く凍った嘆息であった。明けて建安19年(214)となった。

 三国志7 宮城谷昌光p.256.




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